書籍
黒い傘の下で 

【Being Japanese!】シリーズ第1弾

今だからこそ考えてみませんか? 「自分が日本人であること」

アメリカ人でも中国・韓国人でもない日本人、白人でも黒人でもない日本人、リッチでもプアーでもない(と思える)このわたし、欧ブランド服着てダイニングテーブルで焼き魚&納豆食べる自分、そんな日本人の国である日本が、いまどこに向かおうとしているのか、向かうべきなのか、なかなか力強い説得力をもった言葉が世に出てきません。誰もが、日本人であることへの迷いを持っているようです。国や社会が向かう道を決めるのはひとりひとりのエヴリデイ・ピープルであって、政治家でも学者でもありません。そんな市井の人々が、さまざまな社会、境遇のなかで何を思い、生きてきたか、そのことをもっと知りたい。すべては自分というBeingに回帰していくものだからです。

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黒い傘の下で――日本植民地に生きた韓国人の声

日本に統治された韓国人はどう生きたのか?
それほど遠くない昔、韓国(現在の北朝鮮を含む)を統治した日本。日本人の広げる黒い傘の下に韓国人たちは何を考え、どう生きたのか。政治指導者・エリート層ではない、一般庶民への聞き書きから鮮やかに浮かびあがる、日本の一部にされた国民の偽らざる心情。竹島問題になぜあれほど彼らは激高するのか……人の一生と国の向かう道を深く思う。

【内容紹介】

 「黒い傘の下で」は二〇世紀前半、朝鮮が日本の植民地支配におかれる前と植民地支配下におかれていた時代に関する記録である。日本は、まるで朝鮮半島の上に浮かぶ果てしなく大きな傘のような存在で、人々の暮らしや行動に不信、疑い、そして恐怖の影を落としていた。日本に支配されたことによって、程度の大小はあれ、朝鮮の人々は世界に対する関心を閉ざされ、植民地支配の影響の下で生きることになった。
 私自身がもともと持っていた日本の植民地支配についての知識は二種類に分けられる。歴史書に整然と列挙されたものと、犠牲者による感情的なストーリーだ。そのため、義父が若き日のことを穏やかなユーモア混じりに語るのは、意外に感じられた。家族は義父がモダンな学校に古いスタイルの韓服(朝鮮の伝統的な衣服)を着ていった話を耳にして、くすくすと笑い、古い製麺機の取っ手の上に立って一家の麺作りを手伝った話も、笑顔で聞いたものだった。ある時、義父の話を聞きながら、私はふと、それがすべて日本の植民地時代の出来事であることに気づいた。
 <中略>
 私はそんな人たちを探し出そうと心に決めた。当時を生きた朝鮮人たちが語る歴史を集めることによって、日本の植民地支配下での豊かさと多様性とを見出そうとしたのだ。この本は、沈黙を破ったこうした人々の物語、当時の朝鮮での生活を再現し、日本の植民地という黒い傘の下で生きた多くの人たちが長い間保ってきたことによって作られたものである。(「はじめに インタヴューについて」より一部抜粋)

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カン・ビョンジュ
男性 一九一〇年生まれ 銀行経営者 平安北道

 祖父、カン・チュンダルの話をしたいと思います。祖父は一八五〇年、哲宗の時代に定州東部の氏族の村で生まれました。伝統的な村の、歴史ある長老の家系の一人でした。古い慣習をしっかりと守り、村から遠くに出かけたこともありませんでした。<中略>

 この日、一人の外国人が道端に立ち、新しい宗教について話していました。祖父は彼の話に惹かれ、ほどなく当時の朝鮮ではまだ珍しかったプロテスタントとして洗礼を受けました。村に戻った後、どうなったとお思いです? 祖父は長老だったので、すべての村人を、意向にかかわらずプロテスタントに変えてしまったのです。
 次の大きな変化は一九〇〇年のことでした。その年、祖父は新たに家族に加わった義理の娘に名前をつけ、彼女の名前を戸籍に載せたのです。それまでは戸籍には女性の名前は記載されず「誰々の娘」と記されるだけでした。そのいきさつをお話しましょう。祖父の息子(私の父)はその年一三歳で結婚しました。まだ幼い妻には名前がなかったのですが、本人は気にしてはいませんでした。いずれにせよ、朝鮮では、伝統的に相手を名前で呼んだりしません。
 ところが、幼い二人が結婚したのは、女性も名前で戸籍に記載するといった法律を定めた甲午改革(一八九四~九五)の直後でした。ほとんどの家族はこの法律を無視していましたが、祖父はこれを伝統を打ち破る新たな手段と捉えたのです。<中略>
 八年後、祖父は父を学校に入学させました。近くに開校したばかりの西洋式の五山学校では、中国の古典に代わって歴史、科学、そして数学を教えていました。この男子校の創設者は日本人ではなくイ・スンフンという朝鮮人でした。
 五山学校が一九〇七年に創立されて一年も経たないうちに、祖父は自分の息子を入学させる意思を固めていました。考えてみてください。この学校はできたばかりで、ほとんど何の準備も整っていなかったのです。だから大人であれ子どもであれ、男性であればだれでも入学が認められたのです。入学したとき、父は二一歳。結婚してから八年が過ぎ、子どもも生まれていました。
 最後に、一九一二年、祖父は六二歳にして四度伝統を破りました。一人息子を村から出し、医者になるために西洋医学を学ばせたのです。おかげで私の父は京城医学専門学校の最初の卒業生の一人となりました。(実は、つい最近ソウルから父の卒業証書を受け取りました)。父は学業を終えると村に戻り、徒歩で二〇分離れたナプチョンで開業医となりました。
 父が高い教育を受けた一方、結婚相手である母は学校に通った経験がまったくありません(当時はそれが普通でした)。父はそんな母と農村で暮らすことに幸せを感じられず、母に「好きなことをやれ」という言葉と財産とを残し、満州で開業して自分の人生を生きるために村を去っていきました。その後、母はすべての財産を切り盛りし、小作農のまとめ役も担っていました。
 満州との国境は村のすぐそばでしたよ。父は年に数回は帰郷していたはずです。一九〇六年から一九二八年の間に生まれた、七人の子どもがいましたから。両親は三人の息子だけでなく四人の娘たち全員に女子高等普通学校と大学の高等教育を受けさせてくれました。女の子が高等普通学校に行くことさえ稀だった時代だったというのに、まったく驚きです。
 父が満州にいたころの、こんな話があります。満州のある司令官が、生きている人間から取り出した肝臓を食べれば、永遠の命を得られると聞きつけた。ある日、父は司令官の本部に呼び出されました。
「お前は西洋医学の医師だそうだな。手術もできるのか」
「左様でございます」
「三人の兵士が捕らえられ、もうすぐ死刑になる。俺が奴らを殺す前、生きているうちに一人を選んで肝臓を取り出してくれ」
 司令官は目を据えて待っています。
「いいえ、私にはそんな残酷なことはできません」
父はそう答えました。
「ならば、お前も殺してやろう」
そして、父は命令にしたがったのです。
 ある日、祖父が家の裏にあった豚小屋の屋根ふきをしていて、私はその周りで遊んでいました。五歳くらいだったので、一九一五年だと思います。突然村を囲む丘のひとつ、ソダン丘の上から、光沢のある茶色の制服を着た日本の憲兵が朝鮮人の部下たちを従えて姿を現しました。
 当時、朝鮮人は警察官とは呼ばれず、日本憲兵の補佐をつとめていました。植民地政府は自らを守るために朝鮮の治安安定につとめ、日本語を話せる朝鮮人男性を雇っていたのです。朝鮮人の部下たちには黒い制服を与え、茶色の制服を着た憲兵の横を歩かせていました。
 横柄な憲兵たちが一〇人以上私たちのところに下りてきて、祖父を取り囲みました。そしてロープで縛り、連行しようとします。憲兵たちは私には気づいていません。急いで家に駆け込み母親に告げると、母親は家から飛び出して憲兵たちに懇願しました。
「縛って連れていくなんて、義父が何をしたというのですか」
 母は取り乱し、叫び、懇願しましたが、憲兵たちは彼女を蹴り飛ばし、祖父を連れ去ってしまいました。
 理由は結局分かりませんでしたが、祖父は数日後には戻ってきました。
 このエピソードは、祖母のキム家がいかに裕福であったか、そしていかに金に厳しかったかを物語っています。同時に、われわれに降りかかった災難が、日本人によってのみならず、同じ朝鮮人にもよるものでもあったことも示しています。日本の植民地支配以後、多くの朝鮮人たちは日本人と戦うためにゲリラ戦法を使い、自らを独立軍と名乗って、戦闘費用を捻出するために金持ちに金を強要していました。祖父の家系のカン家には手を出さなかったのですが、祖母側のキム家は目をつけられたのです。ゲリラたちはキム家に「もう一度来るから金を用意しておくように」と脅しました。キム家の父親は金を出すことを拒否し、ゲリラが戻ってきても金を渡そうとしませんでした。そしてその場で兵士たちに殺されてしまったのです。

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イ・サンドゥ
(男性)一九一〇年生まれ。トラック運転手 京畿道

 私の父は東学・天道教の伝道者でした。「東学」はとりわけ狂信的愛国主義で、西洋のすべてを朝鮮の伝統に反するものとして否定しました。
 父の伝道活動に対して金銭が支払われることは全くありませんでした。兄たちは父を手伝っていました。信者たちは金の代わりにわずかな米をくれました。米の量は信者の家族の人数に左右されます。この米を売って得た金をソウルにある東学の本部に送り、本部が経費として使うのです。
 私の家は広く、集会の計画を立てるために人々がやってきました。家では会議がよく開かれていたのを覚えています。それは秘密会議でした。「万歳、万歳」と叫ぶ集会について大人たちが話し合うのを聞いたこともあります。(訳注 朝鮮半島の独立を願い各地で万歳と叫んだ「三・一運動」のことと思われる)
 父は日本人が来るのを嫌っていましたが、私はそれほど悪い印象を持ってはいませんでした。何故かって? 村は梅雨時になると決まって洪水になりました。貯水池やダム、橋を建設したのは、やってきた日本人です。岩で支払う税金制度もあり、各家庭は一年に二、三回決まった量の岩を拾いに行かねばなりませんでした。その岩は道路を作るのに使われたのです。
 日本人の組織力には驚くべきものがありました。彼らは計画的に物事を進めるのです。詳細な計画を立ててやってきて、きちんとしたものを建設する。日本人が私の村に建てた橋は、雨や洪水の中でも持ちこたえました。また、日本人たちはいろいろな小物を持ち込みました。鋭いかみそりナイフ、すぐに火がつくマッチ、レコードプレイヤー……。それらはヨーロッパ製で、私たちが待ち焦がれていたものでした。最初に朝鮮にそれらを持ち込んだのは日本人でしたが、長い目で見ると良かったのだと思います。
(第一章「変化の訪れ」より)

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